前から気になっていたこの映画を、おとといの土曜日に渋谷で観てきました。ディランを6人の役者が演じるという、話だけを聞くとどんな映画だかイメージしにくい作品です。それで、実際に映画を観たら、やっぱりちょっとシュールでわかりづらかったというのが本音です。
6人のディラン役の中では、一番ストレートにディラン的だったのが、女性のケイト・ブランシェットでした。このひとのなりきりぶりはなかなかです。彼女をフィーチャーした場面も、実際のことに近いものが多かったですし。
一番意味不明なのはリチャード・ギアのディランでしょうか。時代設定もよくわかりませんし、キャラクターとしては、こういう一面というか、こういうことを考えているディランもいるんだろうなとは思いましたが。
ともあれ、6人のディランは、それぞれが本人の分身みたいなもので、彼の多面性がこの映画を観ればわかるとは思います。ただし、その多面性は分裂症気味のものです。そこがディランの歌や言動の面白さなんですが、その面白さはひとりの人間の中に存在するものだからこそと、映画を観ながら思っていました。
それぞれの役者が、ひとりの人格の中にあるまったく違うキャラクターを演じるのは、映画の企画としては面白いと思いますが、この映画についていえばちょっと脈略がなさ過ぎてシュールに感じられました。もっとも、それがこの作品の特徴だといわれてしまえば、その通りです。
ディランが「ニューポート・フォーク・フェスィヴァル」でエレキを弾いてブーイングされたときは、日本でも話題になりました。この映画にも、「ニュー・イングランド・ジャズ&フォーク・フェスティヴァル」と名称を変えていましたが、そのシーンが出てきます。いまでは誰もそんなことは思わないかもしれませんが、あの時代、ぼくたち日本のディラン・ファンやフォーク・ファンまで、もう彼は終わったと思ってショックを受けたことを覚えています。
本当にがっかりしました。当時は、フォークならフォーク、ロックとは違うという思いが普通だったんですね。ですから、ディランはロックに魂を売った、フォークを裏切ったと、ぼくなんかも本気で思いました。
考えてみれば、身勝手な話で、その時点でぼくはロック少年でもあったわけですから、ディランがロックを始めたっていうのは喜んでもいいことのはずなんです。でも、日本もアメリカも同じだったと思いますが、ロック・ファンはその変節を冷たい目で見ていたように思います。
ディランの歌じゃありませんが「時代は変わる」んですね。いまだったら、フォーク・シンガーがロッカーになっても、それほど目くじらは立てないでしょう。あのころの若者の間には反戦の機運が高まっていて、それの象徴がディランでした。
しかし当の本人は、そういう風に思われるのがいやだったんでしょう。それでロックを歌いだしたって部分もあったと思います。この映画でも、周りが勝手なレッテルを貼ることにうんざりしているディランがあちこちで登場します。
サントラは出たときに買って、iPodで繰り返し聴いていました。ディランて本当にいい曲が多くて、そのことにいつもながらびっくりしてしまいます。本人によるヴァージョンもいいんですが、このサントラのように、他人のカヴァーにも面白いものが多いんですね。そこがディランの曲の特徴だと思っています。それだけ、彼の歌って、それぞれのひとが独自に解釈したくなるんでしょう。だから、こういう映画も作られたのかもしれません。
あと、吉田拓郎や岡林信康がディランの影響を受けていることも、映画を観ながら思い出していました。
10年近く前に、ディランを中心にした本で『20世紀のロック名盤300』というのを、何人かのかたと書きました。ぼくは彼のアルバムでは「ジョン・ウェーズリー・ハーディング』が一番好きで、そのアルバムのことなんかを紹介しています。
この本は、なかなかよくできていて、ディランのアルバムを全部紹介しつつ、彼に影響を受けたひと、彼から影響を受けたひとなどのアルバムが紹介されています。ディランを中心にして、フォークとロックの流れを知ろうという企画です。ポピュラー・ミュージックがディランを中心に動いてきた、あるいは動いているとは思いませんが、それでも彼は重要な影響力を示してきました。この本は、そういうことをがわかるようになっています。