3部作も書き終わってしまい、このシリーズ、とりあえず続編を出すつもりはありません。しかし、暇を見つけてはしつこく書き続けています。というか、昔の原稿をあさっては、この本の書式にのっとってまとめているのが本当のところですが。いつか、ある程度の本数になれば一冊になるかもしれませんし。
そういうわけで、眠っている記憶を呼び覚ますべく、別に暇じゃないんですが、ちょっと1本書いてみました。今回はセルジオ・メンデスで、元ネタは『スイングジャーナル』(だったかな?)で発表したインタヴュー記事です。
「ブラジル '66で人気者にはなれたけれど、わたしとしてはそれ以前にやっていた音楽にも強い誇りを持っている。とくにアメリカに出て、アトランティックのネスヒ・アーティガンに勇気づけられたことは忘れられない」
そもそもの始まりは、一九六一年にハービー・マンがブラジルにわたり、アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトたちとレコーディングを行なったことだ。そうしたセッションのひとつに若き日のセルジオも起用されたのだった。そのレコーディングがアメリカでアトランティックから発売され、それが切っかけで翌年には「カーネギー・ホール」で初の本格的なボサノヴァ・コンサートが開催された。
「そこにわたしも呼ばれて、すっかりアメリカが気に入ってしまった。その後はブラジルの文化使節として世界中を回り、日本にも六四年に来ている。そのときのグループがボサリオ・セクステットで、世界ツアーが終わったこの年、アメリカにグループで移り住むことにした。当初はボサリオ・セクステットで活動していたんだが、アトランティックの肝入りでニュー・グループを結成することになった。それがブラジル '65だ。メンバーはオーディションで選んだり、以前の仲間だったりで、ボサノヴァをできるだけ多くのひとに広めたいというのがグループ結成の動機のひとつだ。ネスヒも全面的にバックアップしてくれて、それでニューヨークからサンフランシスコまで、各地のクラブをサーキットした。最終地のサンフランシスコでは「エル・マタドール」でライヴ・レコーディングも行なった」
『エル・マタドールのブラジル '65』がそのアルバムだ。この時点で、セルジオの音楽はまだオセンティックなボサノヴァ・サウンドを追求するものだった。翌年に結成されたブラジル '66のポップなサウンドとはかなり様相を異にしている。
「ブラジル '66はレコード会社の意見を取り入れて、ああいうサウンドになった。お陰で大ヒットはしたけれど、自分の求めていた音楽とは違ったんで、それほどハッピーになれなかった。それよりアトランティック時代のほうがやりたいことをした充実感がある。わたしは本質的にはジャズ・ピアニストだと思っている。だから『マイ・フェイヴァリット・シングス』が吹き込めたことを誇りにしている。それとイージー・リスニング・ジャズ的な内容ではあるけれど、『グレイト・アライヴァル』も録音できてよかった。ゴージャズなオーケストラをバックにピアノが弾けるチャンスなんて、めったにないことだからね」
メンデスは遠い昔を懐かしむように、アトランティック時代のことを問わず語りで話してくれた。こちらが持参した当時のアルバム・ジャケットを見て、さっそく隣室のメンバーにそれを自慢しにいく。そんな彼は、本当にアトランティック時代のことを快く思っているのだろう。六〇年代に五枚のリーダー作をこのレーベルで残したあとのセルジオは、ご承知のようにブラジル '66で大ブレークした。その彼が一度だけ古巣のアトランティックでレコーディングを行なうことになった。それが七七年に吹き込んだ『ペレ』だ。
「あれはペレが作った映画のサウンドトラックだ。彼とは昔からの知り合いで、あるとき直接電話がかかってきた。自分の映画に音楽をつけてくれないか? ってね。ペレからなにか頼まれて断れるひとがいるかい? あれはハッピーな仕事だったね。しかも、その中からヒット曲も生まれたんだからラッキーだ。ハッピーでラッキー。このふたつがあれば最高だ。あのときもネスヒが陰でずいぶん協力してくれた。本当に彼はわたしの恩人だ。アトランティックでの仕事は、だからいつも楽しいものになる。いい思い出しか残っていない。しかも今度は日本のアトランティックがあの時代の作品を全部CDで発売してくれるっていうんだからまたまたハッピーじゃないか。本当に気分がいいよ。なんなら、日本のファンのためにスペシャル・レコーディングをしてもいい。幸いレコーディングの契約がいまは切れているからね」
と、話があらぬ方向に進んでしまったが、セルジオはアトランティック時代を振り返って、これまでで一番自分の気持ちに忠実な形でアルバムが作れたことを強調していた。当時の作品をいま聴いてみると、たしかに無名の新人だった彼に、このレーベルはさまざまなセッティングでの吹き込みをさせている。それだけ期待が大きかったのだろう。
「ボサノヴァが誕生しなかったら、わたしはどんな人生を送っていたかわからない。アントニオ・カルロス・ジョビンとたまたま知り合っていたのもラッキーだった。彼から影響を受けて、わたしは自分のスタイルや音楽性を発展させることができた。それをアメリカに持ち込んだだけの話だからね。時代も味方してくれたんだろう。さまざまな条件がわたしをいい方向に導いてくれた。そうして今日のわたしがここにいる。考えてみれば、面白い人生を送ってきたものだ」
このあと、本ではアルバム紹介が入ります。ここは、高校時代にさんざん聴いたブラジル '66の2作目『分岐点』で決まりでしょう。