おとといの日曜日に観てきました。何度か予告編を観ていて、面白そうだなと思っていたんですが、最後は「こういう終わり方なの?」という感じでした。途中までは面白かったんですけどね。
映像は迫力満点です。とくに地下鉄事故のシーンは凄かったです。こういう事故、あるかもしれないと思ったらぞっとしました。ともかくこの映画は大画面で観るべきで、その点ではおおいに満足しました。
ストーリーは50年前の小学生たちが埋めたタイム・カプセルから、数字が羅列されたメモが出てきます。それを持ち帰った小学生の父親で宇宙物理学の教授(ニコラス・ケイジ)がその数列を解析したところ、それらの数字は過去の惨事とこれから先に起こる災難を示すものであることがわかりました。
このプロットは実に面白いんですが、結末がどうも。マンハッタンは大洪水で押し流されてしまいます。当然ぼくのアパートも。勝手に壊さないでほしいなぁと思いつつ、特撮は実によくできていて、こういうのは大好きです。
ただし観たというだけで、あとにはなにも残りません。先日観た『愛を読むひと』とか『扉をたたく人』などからは深い余韻や思うことがありました。でもこの映画は「観た」という事実が残るだけ。それはそれでいいです。映画館にいた2時間の大半を楽しめたのですから。
観る映画すべてが自分にとって大きな意義があるようでしたら、そういうことのほうこそ怖いです。感じるものもあまり感じないものも、はたまたまったくなにも感じないものも、いろいろな映画があってこそじゃないですか。
レコードやCDもそうです。ひとはとかく内容の優れたものばかりを聴きたがります。その気持ちはよくわかりますし、そう思うのが自然です。でもぼくはへそ曲がりですから、みんなが面白くないというものも積極的に聴きます。自分の耳で確かめたいのと、変なものを聴けば聴くほど優れた作品の素晴らしさが実感できるようになるからです。
これってある意味で贅沢ですよね。でも自分が好きなものにはこれくらいの贅沢はしたっていいかなって思います。あんまり効率よく物事に接したくない気持ちがあるからです。回り道が実は近道ってこともあるじゃないですか。
無駄と思われることもときには必要です。それも全体から見れば、実は無駄じゃないんですね。いまになってそういうことがわかってきました。これまでのことすべてが現在の自分を形成している──そのことに気がついたからです。
話がそれました。そういう風に考えると、『ノウイング』も大切な時間をすごすことができたひとコマだったと思います。