作品を発表するたびに好きになるシンガー。そういうひとがエルヴィス・コステロです。デビューしたてのころはパンクでチープな印象のロッカーでした。しかしその声が妙に気になりアルバムが出ると買ってしまう──ぼくの中で彼はそんなポジションにいます。そして気がつくと、いつの間にかコステロはパンクなロッカーから魅力的なシンガーになっていたのです。
ちょっとハスキーなヴォイスに心を奪われます。独特のスタイルを持っていると言ってもいいでしょう。こんな感じで歌が表現できるひとは、ポップスの世界にもジャズの世界にも見当たりません。

そしてこの10年ほど、コステロは少しずつ創造性を高めてきました。その頂点とも言えるのが新作の『マイ・フレイム・バーンズ・ブルー』(ユニバーサル)です。行き着いたところはジャズですが、彼のことですからお馴染みのスタンダードなんか歌いません。そこがロッド・スチュアートとは大違いです。
脱線しますが、ロッド・スチュアートのジャズ・アルバムにはがっかりしました。創造性のかけらも感じられません。ロッド・フリークとしては、見てはいけないものを見た気分になって、あわててCDプレイヤーからディスクを抜き出したほどです。
それに比べると、コステロの新作はジャズ的な要素を強く打ち出しながら、あくまで彼の音楽になっているところが見事です。同じイギリス人でもこうも違うものかといった思いを強くしました。
アルバムで歌われるのは、これまでに発表した曲や、ミンガスやエリントンが書いたメロディにコステロがオリジナルの歌詞をつけたものなどです。それらをマイク・モスマンが中心にアレンジし、ストリング・セクションを含むメトロポール・オーケストラが伴奏をつけるという内容です。録音の舞台に選んだのは、世界最大規模を誇るオランダの「ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル」です。そこにコステロの心意気を感じました。
もちろん、これを単純にジャズ・アルバムと呼ぶわけにはいきません。アレンジやソロはジャジーな響きが中心になっています。しかし、コステロはこの作品で彼にしか表現できない音楽を作り上げました。そのためにジャジーな響きが必要だったのでしょう。
ただし、それはコステロが自分の音楽をさらに拡大するための方便に過ぎません。ここでは過去のアルバムからも曲が選ばれています。音楽家として円熟した時代を迎ええつつある彼が、シンガーとしても飛び切り個性的で魅力的な存在であることを改めて示してみせたのがこの作品ではないでしょうか。
ところで、ぼくはこの作品で嬉しい名前を発見しました。何曲かでアレンジを担当し、ステージではオーケストラも指揮したヴィンス・メンドーサです。彼とは浅からぬ縁があります。というのも、ぼくが本格的にプロデュースを始めるきっかけになったのがヴィンスのレコーディングだったからです。
ヴィンスは90年に、自費でレコーディングをしていました。ところが途中で資金が底をついてしまいます。メンバーが凄かったんです。ボブ・ミンツァー、ジョン・スコフィールド、ピーター・アースキン、ジョー・ロヴァーノ、ラルフ・タウナー、ゲイリー・ピーコック、ウィル・リー、ジム・ベアード、マーク・コープランドなど、オールスターを集めたオーケストラで録音していたんですから。
その話をたまたま日本のレコード会社にしたところ、残りの費用は出すから、お前もヴィンスと共同でプロデュースして来いということになりました。それまでにも日本人アーティストをプロデュースしたことはあったんですが、これがニューヨークでプロデュース業を始める第一歩になりました。
そして次に続編を録音することになり、ここからぼくはプロデューサーとしてひとり立ちします。これは幸いなことにアメリカでもブルーノートの傍系レーベルからリリースされて好評を博しました。
ヴィンスはこのアルバムをきっかけに作・編曲家として活躍するようになります。ジョー・ザヴィヌルがオーケストラを率いてドナウ河の河川敷で開催したコンサートでも編曲と指揮を依頼され、最近ではジョニ・ミッチェルのジャズ作品でもアレンジャーとしてクレジットされています。
ヴィンスとは、その後10年ほど連絡を取っていなかったのですが、数年前に突如メールをもらい、最近ではときどき連絡を取り合っています。彼とコステロの間にどんなことが起こったのかは知りません。でも、才能豊かなヴィンスを選んだコステロの嗅覚はさすがです。機会があれば、ヴィンスにこの経緯を聞いてみようかと思います。