ストーンズ・フィーヴァーからようやく立ち直りつつある小川ですが、彼らのステージに触れて、今日はダリル・ジョーンズのことを思い出してみました。

ダリルの存在を知ったのは1983年の6月です。マイルス・バンドに抜擢された直後の彼を「クール・ジャズ・フェスティヴァル」(現在の「JVCジャズ・フェスティヴァル」)で観たのが最初です。マイルスがカムバックしてから、マーカス・ミラー、トム・バーニーを経て、ベーシストはダリルに代わりました。その彼が参加しただけで、マイルス・バンドのサウンドが随分ファンク寄りになったなと感じたことを覚えています。
ダリルは、2年後にブランフォード・マルサリス、ケニー・カークランド、そしてオマー・ハキムとスティングのバック・バンドを結成します。以来ポップス畑をメインに歩き、ブルース・スプリングスティーンやマドンナのツアーを経てストーンズに参加しました。

そんなダリルと知己を得たのは、マイルス・バンドに在籍中のことです。やがてぼくはプロデューサーになって、その時代のマイルス・バンドにいたメンバーをリーダーにしてアルバムを作るようになります。そのシリーズ・プロダクションで最初に起用したリーダーがアダム・ホルツマンです。ベーシストはダリル以外に考えられません。
アダムから、シカゴに住んでいるダリルの電話番号を聞いて連絡をとりました。すでにマドンナ級のアーティストと共演しているので、ノーといわれる覚悟でしたが、話してみたらいとも簡単にOKしてくれました。安いギャラにもかかわらず、ミュージシャンとして興味を示してくれたのです。もちろんアダムとの友情も大切に思っていたのでしょう。ちなみにこのときのアルバム・タイトルは『イン・ア・ラウド・ウェイ』です。マイルス・ファンならおわかりでしょう。『イン・ア・サイレント・ウェイ』をもじったものです。
アダムのレコーディング中に、ぼくはダリルのシカゴ仲間を集めてアルバムを作りたいと持ちかけました。マイルスが長い療養からカムバックする際に、リハーサルにつき合っていたのがダリルやロバート・アーヴィングでした。彼らふたりをフィーチャーしようと考えたのです。
すると思いがけない答えが返ってきました。実はそのふたりに、やはりマイルス・バンドに参加したことがあるギタリストのボビー・ブルーム(この間のソニー・ロリンズ・ツアーでも来日していました)、そしてドラマーはカーティス・メイフィールドのバンドにいたトビー・ウィリアムスの4人でESPというバンドを作っているというじゃありませんか。
ESPも、考えてみればマイルスのアルバムのタイトルです。これはもう作るしかないでしょう。かくしてぼくは1992年の2月にシカゴに行きました。
このころはバブルが真っ盛りで、レコード会社にも余裕がありました。スタジオ代が安かったこともあり、メンバーの希望どおりレコーディングは約4週間という、ジャズやフュージョンではちょっと考えられない規模になりました。
ところがぼくのプロデューサー・フィーでは、そんなに長期のホテル滞在は無理です。ニューヨークならアパートがあるので航空運賃だけで経費は済みますが、シカゴではそうは行きません。そこでロバートに頼んで下宿のような格安のホテルを世話してもらいました。

レコーディングは毎日夕方から明け方、予定の曲が終わらなければ朝の10時くらいまで続きます。疲れてホテルに戻っても、お風呂のお湯が時間外で出ないようなところに泊まっていたので、これには参りました。1週間もすると気分が落ち込んで、自分でもこれじゃ駄目だなという感じになってきました。そこで自腹を切ることにして、かなりいいホテルに移り、これで気分はぐっと楽になりました。
メンバーがいろいろと気を使ってくれたのも嬉しかったですね。オフの日には、ぼくのカレー好きを知っていたダリルがシカゴで一番おいしいカレー屋さんに連れていってくれました。帰りには、彼の車で『ブルース・ブラザーズ』の撮影に使われた有名なレストランの前を通ったり、彼なりに面白い場所を案内してくれたんですが、これもひとりでアメリカ人相手にスタジオで苦労しているぼくを気遣っての彼なりの優しさでした。

ダリルでおかしかったのは、音楽の世界で大成功していたにもかかわらず、両親の家に住んでいたことです。アメリカ人で、こんな大人は珍しいといえるでしょう。しかも自分の車は持っていなくて、スタジオに来るときやぼくと遊びにいくときは、母親のボルボか父親のベンツ(といっても中古のオンボロでしたが)を借りてきます。親離れしていないんだと、メンバーにからかわれても嬉しそうにしていたダリルです。
あと、このレコーディング中に彼は初めてのコンピューターを買ったんですね。そのマッキントッシュを何とかレコーディングで使いたかったようですが、うまく作動しません。休憩時間にずっといじっていましたが、思うようにならず、結局エンジニアにプログラミングしてもらって使えるようになったのが1週間くらいあとのことです。
いろいろあったレコーディングでしたが、振り返ってみるとみないい思い出ばかりです。そのほかのメンバーにもこのときはよくしてもらいました。その話は、またいずれということにしましょう。