この間はダリル・ジョーンズについて書きましたが、今日は残りのメンバーやレコーディングの思い出話を紹介しましょう。
ESPはキーボード奏者のロバート・アーヴィングとベースのダリル・ジョーンズが中心になって結成されたグループです。実際はほとんどライヴ活動もしていなかったようですが、ダリルからグループのことを聞き、ロバートにコンタクトを取りました。そして、何度か電話で互いの考えを話し合った結果、レコーディングの合意に達しました。
ロバートはマイルスのカムバック作『マン・ウィズ・ザ・ホーン』をはじめ、『デコイ』、『ユーアー・アンダー・アレスト』などに参加し、レギュラー・メンバーとしては1984年から86年までツアーに出ています。その彼が、ESPでは音楽監督だったんですね。それでビジネスの話はギターのボビー・ブルームにしてくれということになって、次は彼に連絡を取りました。
ボビーはマイルスとのレコーディングこそありませんが、1980年代中盤から後半にかけて何度かツアーに参加しています。それよりは、ソニー・ロリンズのレギュラー・ギタリストとして知られていたひとです。
その彼に電話をすると、奥さんがロイヤーなので、ビジネスは彼女がハンドリングしているとのことでした。そこでバジェットやさまざまな条件をファクスで流し、あとの細かい点は、彼の奥さんとぼくをプロデューサーに雇っているパイオニアLDCとで詰めてもらうことにしました。
これが結構大変だったらしいんですが、ぼくがお金のことで介入すると、あとでプロデュースがやりにくくなるので、こちらは知らん振りを通しました。そして、お金の面でも互いに納得することになって、いよいよレコーディングです。
そうそう、ドラマーのトビー・ウィリアムスを紹介していませんでした。彼はカーティス・メイフィールドのバック・バンドをはじめ、シカゴのファンクやフュージョン・バンドで鳴らしていたひとで、歌もうたえるという話を聞いていました。そこで、ロバートとトビーに1曲ずつヴォーカル・ナンバーを書いてもらうことにして、トビーをシンガーとしても起用することに決めました。
レコーディングは1992年2月から3月にかけて、シカゴにあるCRCスタジオで行ないました。どうして1ヵ月近くもレコーディングにかかったかというと、実はその間の1週間ほど、ロバートがシンガーのスーザン・オズボーンの伴奏者として日本に行くスケジュールが入っていたからです。
それまでに、ベーシックのトラックは完成させて、彼がいない間は、3人がオーヴァーダビングをしたり、ぼくがそれらの曲でどんな修正が必要かを考える時間に当てました。それとトビーの歌入れもやることにしました。
面白かったのは、彼のバックに女性3人のコーラスを入れようと急遽提案したところ、翌日には黒人のおばさん3人がスタジオに集まりました。彼女たちがとにかくうまいんですね。どこからどう見ても、その辺にいるちょっと太った中年のおばさんで、とてもプロのシンガーには見えません。
ところが話を聞いてみると、その中のひとりはエモーションズのオリジナル・メンバーだというし、もうひとりはモータウンのバック・コーラスを務めていたというじゃありませんか。改めて、アメリカの音楽ビジネスの奥深さを知りました。
レコーディングは夕方の6時から午前2時とか、遅くなると6時、しまいには朝の10時まで続けるとか、結構強行軍でした。そんなときは、メンバーの奥さんたちが夜食や朝食の差し入れを持ってきてくれます。一番おいしかったのは、ボビーの奥さんがテイクアウトしてきてくれたフライド・チキンです。
あるとき、自分でも買いに行きたくなって場所を聞いてみました。するとサウスサイドの奥の方で、そんなところに日本人が行ったらどうなるかわからないといわれたんですね。でも、食べたい。すると、心優しいダリルが、それじゃぁぼくがいまから買ってくるといって、お父さんに借りた車でひとっ走り行ってきてくれました。
そこの店の名前は忘れてしまいましたが、昔から黒人の間では有名なレストランで、24時間営業をしているそうです。どんな時間に行っても混んでいて、そのざわめきをイメージして作られたのがラムゼイ・ルイスの「ジ・イン・クラウド」だそうです。この話を教えてくれたのはボビーでした。
と、取り止めもなく思い出話を書き綴っていくとまだまだ行ってしまいます。今回はこの辺で終りということにしましょう。
そうそう、明日は「ONGAKUゼミナール」ですが、新刊の『JAZZ TALK JAZZ』も即売するそうです。ご希望の方にはサインもしますので、よろしく。