しばらくスパイク・リーの映画は観ていなかったんですが、最新作の『インサイド・マン』を「新宿武蔵野館」で観てきました。
スパイク・リーといえば、『ドゥ・ザ・ライト・シング』、『モー・ベター・ブルース』、『マルコムX』など、寵児として話題を呼んでいたころの作品は封切られると同時に全部観ていました。ニューヨークが舞台だったり、ジャズがテーマだったりで、興味があったんですね。社会派的な内容に考えさせられることも多々ありましたし。それから、せりふがとにかく気が利いていて面白い。そこにはまっていた時期があります。
久々に観たスパイク・リー作品は、過去のものにくらべればエンタテインメント性が強調されていました。それでも、人種に関するせりふ、皮肉とユーモアがない交ぜになった会話、ニューヨーカーなら誰でもうなずいたり笑ったりするだろう機知に富んだいい回しとか場面は相変わらずです。
デンゼル・ワシントン、ジョディ・フォスター、クライヴ・オーウェン、ウィレム・デフォーが出演して、テーマが銀行強盗。もしハリウッドがこの素材で映画を作れば、もっと壮大でエンタテインメント性の高い超話題作になったかもしれません。
ハリウッド映画にくらべれば、スケールが小さいことは否定しません。しかし、そこがスパイク・リーのスパイク・リーたるゆえんです。ぼくにはすごく楽しめる映画を彼は作ってくれました。
スパイク・リーの映画で楽しく感じるのは会話です。ブラック・ユーモアに近い冗談をいいながらも核心をずばっと突くせりふにニヤリとさせられます。日本語だと単なる冗談になってしまうことでも、英語だとそれがやけにスマートに映るんですね。ぼくもこういう会話を楽しみたいといつも思っています。
うまく説明できないんですが、会話を楽しむっていうのは、楽しい話をするのとは意味が違うんです。言葉のキャッチボールを楽しむとでもいえばいいでしょうか。そんな会話ができる友人もいたんですが、そのひとは地方に引っ越してしまったので、たまにメールでのやりとりしかしなくなってしまいました。某レコード会社のひとともこれに近い会話をしていますが、お互いに皮肉を利かせてしまうので、ぼくがイメージしている会話とは少し違います。
アメリカ人だとブランフォード・マルサリスとプロデューサーのマイケル・カスクーナがこのタイプですね。ただし、こちらの英語力が大幅に不足しているため、受け答えで楽しめる会話が成立しないところにもどかしさを感じています。
こういう会話ができる友人・知人はなかなかできないものです。どういうひととならこういう会話ができるんでしょう? 何でもわかり合えるけれど、ちょっと距離がある関係。それと同世代であること。この辺にポイントがあるようです。
あまり親しすぎてもだめだと思います。ちょっと遠慮をしながら、その遠慮を踏み越える瞬間を楽しむということでしょうか? 座談の楽しさというのが、ぼくのいいたいことに一番近いかもしれません。
その面白さがスパイク・リーの映画には至るところで認められます。ストーリー自体はちょっとわからないところもありましたが、登場人物のせりふや会話がニューヨーク的で、こういう話ができたら羨ましいなぁと思わせられました。
これは『シンデレラ・マン』のボクサーとマネージャー、それから『ミリオンダラー・ベイビー』のトレーナー同士の会話なんかにも認められました。冗談の中に知的なやりとりがあるんです。ただし、この「知的」なものも知性や教養ではなくてセンスなんです。
翻ってみれば、自分は毎日いかに垂れ流しのようにしか言葉を発していないかということです。これからはもう少し気の利いた言葉を使ったり話をしたりしてみたいものです。なんていうことを、この映画を観てから考えていました。
そうそう、音楽はテレンス・ブランチャードが担当しています。このところニューオリンズに引っ込んでいてジャズの現場にはあまり出てこない彼ですが、すっかり映画音楽の色に染まっているようです。サスペンス映画向きの音楽をこの映画でも見事に作り上げていましたし。
おそらく自宅のスタジオで録音したと思いますが、こういう仕事が性に合っているんでしょうか。それはそれでいいことなんですけれど、反面ちょっと寂しい気もします。ウイントン・マルサリスが回れ右をしてニューオリンズ・ジャズの継承に執念を燃やしているいまだからこそ、その穴を埋めてもらいたいんですけれどね。でも、人生いろいろですから、これはこれで素晴らしいと思います。